自分で学ばず、自分で考えずに人の言うことだけを聞いていると、間違うことすらできない。
何となくしんどいな、不都合だな、疲れるなとか、こんなはずじゃなかった、と思うことはあっても、今とは違う可能性を考えつかなければ、結局、運命として受け入れる他ない。
逆に今とは違う可能性を考えることができた人は、その可能性を仮説として、自分の見込みが間違っているかどうか、少なくとも検証することができる。
大抵の場合、痛い目にあって思い知らされるんですけどね。
でも、そこでようやく人は本当の意味で考えること、そして学ぶことを始める。
世界は自分が今までぼんやりと思っていたようなものではなかったと思い知り、
「本当はどうなんだろう?」
と問うことができて、初めて今までのような自分の思い込みを強める素材をあれこれコレクションするのとは異なる、学びを始めることができる。
それは多分、誰かが用意してくれた正解を押しいただくような勉強と違って、これさえやれば大丈夫っていう教材がある訳じゃないし、誰かがその成功を保証してくれる訳でもない。効率はとても悪いし、間違える確率も低くない。
でも、間違うことで、痛みを受けることと引き換えに、またひとつ思い込みを壊せる。
そうした失敗の痛みが、次の学びの機会となり、ストックになっていく。
逆説的な言い方だが、学んだ人はそれだけ間違う権利を得る。間違う権利は、学んだ人が手にする自由の中にあると思う。
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